大判例

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浦和地方裁判所 昭和49年(ワ)440号 判決

原告

筑井雅義

右法定代理人親権者父兼原告

筑井信義

同法定代理人親権者母兼原告

筑井絹江

右三名訴訟代理人

江藤鉄兵

椎名麻紗枝

紙子達子

保田行雄

被告

医療法人ヘブロン会大宮中央病院

右代表者理事

栗野光

右訴訟代理人

饗庭忠男

小堺堅吾

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は、原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

第一当事者

請求原因一の事実は、当事者間に争いがない。

第二本件医療事故発生とそれに至る経緯

一原告絹江は、昭和四四年四月三〇日、午後九時五二分、被告病院において在胎週数三四週(出産予定日は、同年六月一二日であつた。)で原告雅義を出産したこと、同原告は生下時体重が一五五五グラムの未熟児であつたため、出生すると直ちに保育器に収容されたこと、その後、同原告は同年七月一八日までの八〇日間酸素投与を受け、同年同月三〇日被告病院を退院したことは当事者間に争いがない。

二〈証拠〉を総合すると、原告雅義の被告病院における臨床経過及び退院後の状況は次のとおりであつたことが認められ、これに反する証拠はない。

1  原告絹江は、出産予定日より約八〇日早い昭和四四年四月二三日ころ分娩兆候を示すようになつたため、当初診察を受けていた医院の医師から安静にしているように命ぜられていたが、同月三〇日午前一〇時ころ分娩が迫り、右医院に赴いたものの、同医院には未熟児保育の設備がなかつたことなどから、右医師の紹介でただちに被告病院へ入院し、同日午後九時五〇分自然破水があつて、午後九時五二分原告雅義を在胎週数三四週で分娩した。

2  原告雅義には出生直後から手掌、足蹠等にチアノーゼが認められたため、同原告の保育を担当した医師清川は、同原告をただちに保育器(アトムV55型)に収容し、同日午後一〇時一〇分より五月一日(生後一日目)の午前一時までの三時間は毎分三リットル(右保育器に表示された濃度換算表(以下濃度換算表という。)によれば、その場合の環境酸素濃度は四〇パーセントである。ただし、被告病院が昭和四七年に三〇分以上酸素を流した後、酸素濃度計で測定したところによれば、その場合の環境酸素濃度(以下実測濃度という。)は三四パーセントであつた。)、五月一日(生後一日目)午前一時から同月八日(生後八日目)の午後九時までは毎分一リットル(濃度換算表では二六パーセント、実測濃度では二三パーセント)の酸素投与を行つた。

3  ところが、五月八日(生後八日目)午後九時ころより翌九日にかけて、原告雅義の全身に強度のチアノーゼが、右顔面には浮腫がそれぞれ認められるようになつたうえに、胸部陥没も強度となつたため、清川は同原告にビタカンファー0.2ccテラプチク0.2ccを注射するとともに、酸素を毎分七リットル(濃度換算表では六五パーセント、実測濃度は六〇パーセント)に増やして投与し、一時鼻腔栄養を中止してチアノーゼ等の状態を見ながら三〇分ごとに一リットルずつ酸素流量を減少させていき、九日(生後九日目)の午前零時には酸素を毎分一リットルとし、以後七月一八日(生後七九日目)の午後一時までの間、右同量の酸素を継続して投与した。なお、原告雅義にチアノーゼが認められたのは、五月九日以降においては七月九日(生後七〇日目)に発生した口唇チアノーゼのみであつた。

4  原告雅義の呼吸数は、酸素投与が中止されるまでのほぼ全期間中毎分三〇から五〇であり、時には六〇ないし六五に達することもあつたほか、体温も生後一六日目ごろまではほとんど摂氏三二度から精々三三度五分程度であり、その後も生後三九日目ごろまでは時々摂氏三五度五分になることはあつてもほぼ三三度から高くて三五度位の間にとどまるという低温状態が続き、生後五九日目ごろになつて漸く摂氏三六度近い状態が持続するようになつた。この間、清川は未熟児を保育するにつき、最も重要な事項のひとつに保温があることは認識していたものの、原告雅義の収容された保育器の温度を何度に、湿度を何パーセントに保持したかは診療録、看護日誌等からも窺い知ることができない。また、原告雅義の体重の増加もきわめて緩慢であつて、生下時体重に復帰したのが生後四三、四日も経過してからであり、しかも最も体重が減少した時には生下時体重の約八五パーセントに当る一三二〇グラムにまで減少した。

5  一方、原告雅義に対する栄養補給は生後二日目の午後六時から鼻腔栄養の方法によつて開始され、最初五パーセントのブドー糖液を三時間置きに二回、生後三日目から二〇日目までは7.5パーセントに、二二日目から五八日目までは一〇パーセントにそれぞれ薄められたミルクを、それ以降は薄めない一五パーセントのミルクをいずれもおおむね二時間置きに一日一二回に分け、一回の食餌量は最初二ccとし、一ccずつ増加していくという方法で行われた。なお、鼻腔栄養は、退院直前の七月二九日に経口授乳に変更された。

6  以上原告雅義のチアノーゼ、呼吸、体温、栄養補給、体重の変化は別表(一)のとおりであつた。

7  原告雅義は、退院後一か月経過しても物や光に対して反応を示さないので、原告信義、同絹江は、不安になつて被告病院における退院後一か月の検診の際、診察にあたつた小児科の医師に眼についての不安を訴えたものの、同医師は、そのうち見えるようになるのではないかと言つただけで、とくに同原告らに指示や説明をしなかつた。しかし、その後も依然として原告雅義の眼の状態に変化がないので、原告雅義は、更に一〇月二七日、大宮鉄道病院眼科で診察を受けたものの、その原因が判明せず、同月二九日に被告病院眼科における検診の結果、すでに両眼とも失明していることが明らかになつた。原告雅義の失明を信じられない原告信義、同絹江は、その後も慶応義塾大学病院眼科や国立小児病院において診察を受けたが、結局国立小児病院の医師植村恭夫より、本症に罹患し失明しているので、もはや治療法はない旨の診断を受けた。

三以上、一、二の事実及び後記第三、第四の二の1、2の各(一)の事実を総合すると、原告雅義の両眼失明は、同原告が被告病院において保育された新生児期における網膜血管等の未熟性に起因するにしても、直接の原因は、清川が原告に対し、前示のとおり八〇日もの長期間酸素を投与した結果本症に罹患したことによるものと推認され、しかも、清川において出生直後から積極的にその体温・栄養等の全身管理を図つていれば、未熟な網膜血管が高濃度の酸素の影響を受ける期間、度合も減ずるわけで、本症発症ないし激化の確率は低下しえたといえないわけではないことが認められる。もつとも、SFD児については、出生時同体重のAFD児に比して、新生児期の状態、保育上必要な処置につき異つた点があることは窺えないわけではないが、ことに原告雅義の程度の出生時体重を有したSFD児において、同体重のAFD児に比し、本症の発現に関して有意差があると認めるに足りる証拠はない。

第三本症について

別表(二)文献目録番号1ないし282記載の文献(以下文献1、2……と表示する。〈編注、昭和24.5から同57.9までの文献〉)、鑑定証人黒部信一、同松山栄吉の各証言を総合すると次の事実が認められ〈る。〉

一本症の病態

本症は、一般に二〇〇〇グラム以下の未熟児(一九七七年のWHO(国連の世界保健機構)の勧告によれば、生下時体重が二五〇〇グラム未満の新生児を未熟児という。)に発生することが多いが、その中でもとくに生下時体重が一五〇〇グラム以下、在胎週数が大体三二週以下のいわゆる極小未熟児に発症率が高いといわれている。

本症の病態については、これまでリース (Reese)、オーエンス(Owens)、パッツ(Patz)ら多くの学者が種々の分類を提唱し、我国においてもこれら学者の文献が紹介されてきたが、その中で、オーエンスが一九五四年(昭和二九年)にアメリカ眼科学会において報告した分類法(オーエンスは眼底症状の変化を活動期、寛解期、瘢痕期に大別し、更に活動期を第Ⅰ期―血管期、第Ⅱ期―網膜期、第Ⅲ期―初期増殖期、第Ⅳ期―中等度増殖期、第Ⅴ期―高度増殖期の五期に、また瘢痕をその程度に応じて五段階にそれぞれ分類した。)が本症の研究者や医師の間で一般に用いられることが多かつた。しかし、右分類が本症の病態の変化を必ずしも明確にしたものではなかつたために我国の学者や医師の間でも本症の診断内容、とくに病態がいかなる段階に進行しているかにつき従来から見解が一定しているとはいえない状態であつた。従つて、本症の予防や治療に関する統一的基準も設定されにくい状況下にあつた。そこで、昭和四九年に我国における本症研究の権威者である植村恭夫、塚原勇、永田誠、馬嶋昭生、大島健司、奥山和男ら一二各の学者、医師からなる厚生省特別研究費補助金研究班によつて「未熟児網膜症の診断及び治療基準に関する研究」が開始され、その成果が昭和五〇年に報告されるに至つた。右報告は、オーエンスの考え方に原則的に従いながら、従来の分類では不明確であつた点を明確化して臨床経過、予後の点により、本症を活動期と瘢痕期に分け、活動期を次のようにⅠ型、Ⅱ型及びⅠ、Ⅱ型の混合型に、瘢痕期をその症状に応じて一度から四度までにそれぞれ分類した。我国においては、最近右分類を用いる学者や医師が多い。

1  活動期

(一) Ⅰ型

主として耳側周辺に増殖性変化をおこし、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、血管の硝子体内への滲出という増殖性変化を示し、やがて索引性剥離へと段階的に進行する比較的緩徐な経過を辿るものであり、自然治癒傾向の強い型である。なお、第二期までで停止した場合には視力に影響を及ぼすような不可逆性変化を残すことはない。

(1) 第一期―血管新生期

網膜周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないか、軽度の血管の迂曲怒張が認められる。

(2) 第二期―境界線形成期

網膜周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められ、後極部には血管の迂曲怒張が認められる。

(3) 第三期―硝子体内滲出と増殖期

硝子体内への滲出と血管及びその支持組織の増殖とが検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲怒張が認められる。硝子体出血が認められることもある。

(4) 第四期―網膜剥離期

明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から全周剥離まで範囲にかかわらず、明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。

(二) Ⅱ型

主として極小低出生体重児に発症し、未熟性の強い眼におこり、初発症状は、血管新生が後極よりおこり、耳側のみならず鼻側にもみられることがあり、無血管領域は広くその領域はヘイジイ・メディア(Hazy Media)でかくされていることが多い。後極部の血管の迂曲怒張も著明となり滲出性変化も強くおこり、Ⅰ型の如き階段的経過をとることも少なく比較的急速に網膜剥離にと進む。

なお、Ⅰ型、Ⅱ型の分類は、前記研究班の報告によつて初めて明らかにされたものであり、Ⅱ型の発症は、網膜血管の未熟度が強く、酸素に対する感受性の強い、一三〇〇グラム以下の極小低出生体重児に起り易く、一五〇〇グラム以上の未熟児にはほとんどみられず、臨床的に遭遇する本症の大部分(九三パーセント程度)はⅠ型と考えられている。

2  瘢痕期

(一) 一度

眼底後極部には著しい変化がなく周辺部に軽度の瘢痕性変化(色素沈着、網脈絡膜萎縮など)のみられるもので、視力は正常のものが大部分である。

(二) 二度

牽引乳頭を示すもので網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。黄斑部が健全な場合は視力は良好であるが、黄斑部に病変が及んでいる場合は、種々の視力障害を示すが日常生活は視覚を利用して行うことが可能である。

(三) 三度

網膜襞形成を示すもので鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これに血管がとりこまれ襞を形成し、周辺に向つて走り、周辺部の白色組織につながる。視力は0.1以下で弱視または盲教育の対象となる。

(四) 四度

水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領よりみられるもので、視力障害は最も高度であり、盲教育の対象となる。

二本症の歴史的背景

欧米では、一九四〇年(昭和一五年)前後から閉鎖式の保育器を用いた未熟児の保育が発達、普及するようになつて失明する未熟児が出るようになつた。そして、アメリカの眼病理学者テリー(Terry)が一九四二年(昭和一七年)に未熟児の水晶体後部に灰白色の線維組織を形成して失明している症例を発見し、これを水晶体後部線維増殖症(Retrolental Fibroplasia)と名付け、本症に関する研究を初めて報告した。とくにアメリカにおいては一九四〇年代後半から本症が急増し、乳幼児失明の原因としては第一位を占めるようになつた。本症の原因については、当初先天性の疾患であるとの考え方も発表されていたが、一九四九年(昭和二四年)にオーエンスらによつて後天性の網膜血管の病変であることが確認され、ビタミンE欠乏説、ウイルス感染説、ホルモン欠乏説、水溶性ビタミン、鉄剤、粉乳、電解質、輸血などが関与する説など種々の見解が報告されたものの、一九五一年(昭和二六年)にオーストラリアのキャンベル(Campbell)が本症の原因は過剰な酸素の投与に関連することを提唱して以来、クロス (Crosse)、ゴールドマン(Goldman)、パッツ、キンゼイ(Kinsey)ら多くの学者が動物実験や疫学的、臨床的に研究を重ね、高濃度の酸素が未熟な網膜に影響を与えて本症を発生させること、従つて未熟児に与える酸素の濃度を下げ、その投与期間を短縮することにより本症の発生頻度を減少させることができることを明らかにした。

こうして一九五五年(昭和三〇年)にアメリカ眼耳鼻科学会のシンポジュムにおいて、未熟児に対するルーチンの酸素投与を中止する、投与する酸素の濃度を四〇パーセント以下とし、児にチアノーゼあるいは呼吸障害のあるときにだけ酸素を使用する、呼吸障害がなくなつたときは直ちに酸素投与を中止する等の勧告が行われ、酸素の使用が制限されるようになつた。その結果、アメリカを中心とする先進諸国では、本症の発生が激減するに至つた。ところが、一九六〇年(昭和三五年)にアベリー(Avery)とオッペンハイマー(Oppenheimer)が、一九四四年(昭和一九年)から一九四八年(昭和二三年)までの酸素を自由に使用していた時代と一九五四年(昭和二九年)以降の酸素の使用を制限するようになつた時代とを比較すると、酸素の使用を制限するようになつてからは、本症の発生は少くなつたものの逆に未熟児の中に特発性呼吸窮迫症侯群(IRDS)によつて死亡したり、脳性麻痺に罹患する児の発生頻度が高くなつたことを指摘したことから、その後未熟児に対する酸素投与の制限についての考え方が見直されるようになり、呼吸障害などをともなう未熟児に対しては高濃度の酸素投与も実施されるようになつた。かくしてアメリカを中心に再び本症に罹患する未熟児の増加が問題になり、本症に対する関心も高まつてきた。

我国において閉鎖式の保育器による未熟児の保育が本格的に行われるようになつたのは、欧米における右のような経験を経た後の昭和三〇年代の末から昭和四〇年代の初めころからであつたので、欧米におけるように無制限な酸素の投与を行う時代を経験せずに済んだし、また当初我国で使用されていた保育器の性能は欧米のそれに比して劣つていたものもあつたことから未熟児に高濃度の酸素を投与することもなく、本症に罹患する未熟児の異常発生という最悪の事態は避けられた。そのため我国では学者や医師の間でも本症は過去の疾患であると考える向きもあつて、一部の学者や医師を除き、本症についてあまり関必がなかつた。しかし、医師植村恭夫は昭和三九年に本症が過去の疾患ではなく我国においても依然発生していることを報告し、その後も次々と本症の発生についての警告を行いかつ未熟児に対する眼科的管理の必要性を強調した。もつとも、我国においてもすでに昭和二四年ころから、一部の学者や医師の中には本症に関する外国文献の紹介や症例の報告を行いあるいは本症予防のための酸素療法(酸素投与量四〇パーセント以下とする。)や眼底検査の必要性を説いたものもあつたが、これらの中には本症を先天性の疾患と同一視しているものや瘢痕期の症例を報告するものがほとんどであつて、活動期の病態についての研究ではなかつたので一般の眼科、小児科、産科医にあつては未だ本症に関心を示す者がほとんどいなかつた。植村らが本症についての警告及び眼科的管理の必要性を説いてから間もない昭和四二年、天理よろづ相談所病院眼科の医師永田誠が世界で初めて本症に対する治療法として光凝固法を行い、これを昭和四三年に発表して一躍注目されるに至つた。そして、我国においては、本症について関心を持つ学者や医師が続々本症の治療として光凝固の追試を行い、昭和五〇年には厚生省研究班による本症の診断並びに治療基準に関する研究報告がなされ、本症に対するおおよその統一的診断基準及び治療方法についての方向が明らかにされた。しかし、現在に至るも本症による失明児は完全になくなつてはいない。なお、Retinopathy of Prematurityという名称はヒース(Heath)の提唱にかかるものであるが、我国においては、昭和四一年国立小児病院の植村恭夫が、本症の活動期から瘢痕期に至るまでの全体の病像をとらえる名称としては後部線維増殖症 (Retrolental Fibroplasia) よりもRetinopathy of Prematurityの邦訳である未熟児網膜症なる名称が適切であることを提唱し、これが学者や医師の間でも一般に用いられるようになつた。

三本症発症の原因

1  酸素療法と本症との関係

本症の原因については前示のとおり当初種々の説が唱えられたが、昭和二六年以降欧米において研究が重ねられた結果、未熟児に対する酸素療法と密接な関連のあることが明らかにされ、現在においても、酸素の濃度やその投与期間だけが本症発生の原因ではないことが強調されてはいるものの、およそ酸素との関連を全く否定する見解は存在しないと言つてよい。もつとも、ごく短時間しか酸素投与を行わなかつた児、全く酸素投与をしなかつた児あるいは動脈血酸素分圧(PaO2)を測定しながら適切な酸素管理を行つた児についても本症発生の例が報告されていることから、本症と酸素療法との間に因果関係がない旨主張する見解も見受けられるが、かかる見解においても、本症と酸素療法との関連をすべて否定しているものとは考えられないし、右のような例はきわめて例外的であるうえに未熟児に対する集中監視装置(NICU)を備え、適切な酸素管理、全身管理の実施されているアメリカや我国の有数の病院においては、本症の発生頻度がきわめて低くなつていることなどからすると、酸素が本症発生の唯一の原因ではないにしても、それが最も重要な誘因のひとつであることは依然として否定されていないものといわなければならない。しかし、本症の発生機序については、今もつて明らかにされているとはいえない。ただ、本症は、未熟な網膜血管(人の網膜血管は在胎週数約八か月で鼻側が、約一〇か月で耳側が成長するといわれている。)がある程度の期間、高濃度の酸素投与を受けることによつて収縮やがては閉塞し、それが不可逆的状態となり、続発的に網膜に新しい血管が発生し、それらの血管が破壊されて出血し瘢痕化するという変化を起し、重症の場合網膜剥離によつて失明に至るものであると言われているが、何故に未熟な網膜血管が酸素に対し、右のような反応を示すのかは明らかではない。

2  本症の発生率等

本症は、生後二週間ごろから六か月間位までの間に発生するが、大部分は、生後二週間から八週間内に発生する例が多いと言われている。本症の発症率については、これまで多くの病院において調査が行われてきたが、その対象となつた児の総数が少いために数値に大きな幅があり、それが一般的に妥当する数値といえるか否か疑問のあるものが多い。しかし、そうした中で比較的調査対象となつた患児の数が多いものを見ると、例えば昭和四四年度から昭和五〇年度までの七年間の国立小児病院における調査では、生下時体重二五〇〇グラム以下の未熟児総数五六七名のうち約13.6パーセントにあたる七七名に二期以上の活動期まで進行した例がみられ、また昭和五一年一月から昭和五三年一二月までの三年間の日赤医療センターにおける調査では九一九例の未熟児のうち、約14.6パーセントにあたる一三四例に本症が発生している旨報告されている。そして、本症に罹患する児は、未熟児の中でも概して生下時体重が一五〇〇グラム以下の者に多く、一〇〇〇グラム以下の児になるとほとんど本症に罹患する。また、在胎週数でみると、大体三二週以下の児に発症率が高い。もとより、本症に罹患した児のすべてが失明にまで至るわけではなく、本症に罹患する児の大部分はⅠ型に属するもので、そのほとんどが自然治癒し、瘢痕を残すことは少ない。失明あるいは強度の弱視の障害を残すのは、Ⅱ型に罹患した場合がほとんどで、前記日赤医療センターの統計によるとⅡ型の発症率は一三四例中六例で罹患した児の約0.6パーセント、発症者全体に対する頻度は、約4.5パーセントであり、国立小児病院における昭和四四年から昭和四九年までの間の統計では、本症発症者全体に対するⅡ型の頻度は7.8パーセント、東京都立母子保健院における昭和四五年から昭和五〇年までの間の統計では9.8パーセントとなつており、それら児の生下時体重は、いずれも一五〇〇グラム未満の極小未熟児であつた。

四本症の予防法と治療法

前示のとおり、本症発生の原因のひとつとして未熟児に投与する酸素が関連していることがこれまでの学者や医師の研究によつてほぼ明らかにされてきたことから、その予防法としては、児に対する全身管理の一環として適切な酸素管理を行うことが最も重要であることが強調され、現在においてもこの点は基本的には変つていない。特に呼吸循環器官の未熟な未熟児、就中極小未熟児にあつては、その生命を守り、かつ脳性麻痺などの後遺障害を回避するためには、時として高濃度の酸素を相当期間補給しなければならないことがあることから、未熟児に対し、いかなる基準で酸素を投与すべきかについては、これまで四〇年近く研究がなされてきたものの、未だその確立した投与基準の解明がなされているとは必ずしもいえないのが現状である。もつとも、従来から未熟児に対する酸素投与量の一応の基準として環境酸素濃度を四〇あるいは三〇パーセント以下として、児にチアノーゼや呼吸障害がなくなつた場合には投与を中止するという方法が比較的多数説として説かれてきたが、右基準を守つたからといつて本症が発生しないわけではなかつた。そこで、今日では、従前の環境酸素濃度を四〇あるいは三〇パーセントとするという基準とともに、児の動脈血酸素分圧(PaO2)の値を基準に酸素投与を行うようになつてきた。アメリカ小児科学会は一九七一年(昭和四六年)、PaO2の値は一〇〇mmHgを越えず六〇ないし八〇mmHgの間に維持しなければならない旨の勧告を行い、我国においても、右基準が一応の目安にされている。もとより、現在においても我国では未熟児のPaO2を頻回に測定し、児の眼科的管理も行えるような人的、物的施設の完備した病院の数は限られているが、新生児の集中監視装置を備え児に対するきめの細かい全身管理、適切な酸素管理の行われている病院等にあつては、本症の発生頻度がきわめて低いことも報告されている。

本症の治療法については、ビタミンE、ACTH、副腎皮質ホルモン等による薬物療法が有効であるとの考え方も一時存在したが、我国においては、昭和四四、五年ころから、自然寛解の割合がきわめて高い本症に副作用の大きい右薬物療法が有効であるのかどうか疑問視されるようになり、現在ではその有効性はほとんど否定されているといつてよい。本症に対する積極的な治療法は、前示のとおり、永田誠の創意によつて、昭和四二年に二人の未熟児に対し、光凝固法が実施されたのに始まる。この点については、昭和四二年秋の第二一回臨床眼科学会で報告され、同医師らはその後も引き続き、本症に罹患した児に対して昭和四四年に六名、昭和四五年に四名と光凝固法を実施し、同医師ら以外の学者や医師(例えば大島健司、田辺吉彦、本多繁昭、田渕昭雄ら)も本症の治療法として光凝固法を試みるようになつた。しかし、光凝固法は本来成人の網膜剥離等の治療に用いられた手法であり、しかも強力な光線を眼底に打ち込むことによつて眼底を灼焼するというものであるだけに、これから成長していく未熟児の網膜に対してかかる侵襲を与えることが将来どのような後遺障害をもたらすかも予測できないことや、とくに自然治癒率の高いⅠ型においては、光凝固法の施術によつて治癒したものといえるか否か疑問であるとの見解が発表されるようになつて、右施術の濫用を戒める傾向が強くなつたが、前示厚生省の特別研究班の報告においても、現段階で決定的治療基準を示すことは極めて困難であるとしつつも、光凝固法(あるいは冷凍凝固法)による一応の治療基準を示し、現に我国においては、光凝固法施術の結果、本症の進行が停止したという例が相当数報告され、本症の治療法として光凝固法が学者や医師の間で行われてきている。そして、現段階においては、光凝固法を施術したことによる後遺障害の例は未だ報告されていない。

以上の事実が認められる。

右認定事実によると、本症は未だ発達の未熟な網膜に発生する眼の疾病であるが、その原因はすべてがそうでないにしてもそのほとんどが酸素投与を受けることがすくなくともひとつの引き金になつており、しかも酸素濃度が高く、投与期間の長い例ほど発生の可能性が高くなるものであつて、その予防法としては、きめの細かい全身管理の一環としての適切な酸素管理を行うことによつて児の身体の正常な発育を促進させ、身体の抵抗力をつける中で酸素濃度を低く、その投与期間を短かくして本症発生の危険性をできるだけ回避することであり、またその治療法としては、未だその効果が確定的であるとはいえないが、光凝固法によつて病態の進行を停止させることであるというべきである。

第四清川の過失の存否について

そこで、清川が原告雅義に対して行つた前示酸素投与の方法そのものに過失があつたか否か、仮にその点に過失がないとしても清川の同原告に対する酸素管理を除く全身管理について不適切な点があつたために、同原告の身体就中網膜や呼吸器系器管等の正常な発育が遅れたことにより網膜が酸素の影響を受け易い状態に置かれ、あるいは酸素の投与期間そのものも長くなつて同原告が本症に罹患し、更に原告に対する眼科的管理、適切な治療法を実施しなかつたために失明にまで至つたものといえるか否かについて検討する。

一証人清川正章の証言によれば、清川は昭和四一年に日本医科大学を卒業し、昭和四二年一〇月に医師国家試験に合格した後、同年一一月から一〇か月同大学附属病院産婦人科医局で、昭和四三年九月から一年間被告病院でいずれも産婦人科医として勤務し、新生児の保育にもあたつていたこと、原告雅義が出生した昭和四四年当時、清川が本症(その当時は後水晶体線維増殖症と呼ばれていた。)について有していた医学上の知識は、未熟児に高濃度の酸素を投与すると、後水晶体線維増殖症という疾病に罹患し、失明することがあること、従つて、未熟児に投与する酸素の濃度は四〇パーセント以下とし、酸素の投与を中止する場合には徐々に薄めるようにすることという程度であつて、本症の病態については勿論のこと、未熟児に酸素を投与した場合には眼科的管理が必要であること、本症の治療法として光凝固法が一部で行われていること、酸素の投与期間が長いことも本症発生の誘因となること等は全く知らず、前記投与基準さえ守れば、本症が発生することもない位に認識し、原告雅義に本症が発生することもありうることは予想だにしていなかつたことが認められ〈る。〉

しかしながら原告雅義が出生した昭和四四年四月前後までにすでた発刊されていた文献1ないし121に〈証拠〉、鑑定証人松山栄吉の各証言を総合すると次の事実が認められ〈る〉。

1  我国において本症に関する文献が刊行されたのは、昭和二四年ころからであるが、それらは外国の文献の紹介や瘢痕期の症例の報告などであつて、中には先天性の疾患と同一視するものもあり、本症の原因として酸素療法が考えられるので酸素濃度を四〇パーセント以下とする、酸素補給の停止は濃度を徐々に下げるなどの見解を述べるだけで、右のような酸素補給を行えば、本症の発生を予防しうるか、本症は治癒しうるという考え方もあつて、学者や本症に関する紹介を行つた医師の間においてさえ、本症はすでに過去の疾患であると考える者があつた。

もつとも、昭和三四、五年ころからは、眼科以外の小児科、産婦人科の専門誌にも本症に関する論文等がかなり掲載されるようになり、未熟児に対する酸素投与の制限あるいは眼底検査の必要性なども強調されるようになつてきたが、それら文献の数は必ずしも多くなかつたうえに、活動期の病態を現実に追跡しながら、本症の予防、治療法を説くものはほとんどなかつたし、一般の小児科、産婦人科臨床医が本症について関心を持つまでには至つていなかつた。ところが、昭和三〇年代の末から昭和四〇年代の初めにかけて、我国においても保育器を用いた未熟児の保育が普及し始めたことから、本症に罹患し、失明する児が相当数見受けられるようになつた。

2  このような時、植村恭夫は昭和三九年に弱視と診断された患者の中に本症に罹患している児がいること及び本症の発生が増加しつつあることを警告するとともに、同医師と小児科医奥山和男は、昭和四〇年に設立された国立小児病院において受診した児について本症に関する調査を行い未熟児六九例中に一三例の本症の活動期の病変を認めてこれを報告し、これをきつかけにしてその後本症について関心を持つ学者や医師が本症に関する報告を次々に行う一方、本症に関する医療事故訴訟が報道されるようになつてようやく小児科、産婦人科の臨床医の一部にも本症の病態等に関心を持つ者が出てくるようになつた。ただ、原告雅義が出生した昭和四四年当時までに我国において発刊された本症に関する論文等を掲載した文献は、相当数にのぼつていたが、そのほとんどは眼科関係もしくは小児科関係の専門誌であつて、産婦人科関係の文献は僅かしかなかつた。そして、一般に医師は、自己の専門分野以外の文献にまで目を通すということは極めて例外的な場合を除いてほとんどないのが実状である。

3  原告雅義が出生した当時、本症の発症原因としては酸素欠乏説、酸素中毒説、相体的無酸素説が主張されていたが、その中で酸素中毒説あるいは相対的無酸素説(高濃度の酸素環境から急激に低酸素環境に移ることにより相対的に無酸素の状態となることが原因であるとの説)が有力であつたことから、本症の予防法は酸素の濃度を四〇パーセント以下とし、酸素投与を行うのは児にチアノーゼや呼吸障害のある場合に限り、投与期間はできるだけ短くするとともに酸素の投与を中止するときは急に中止せず徐々に酸素濃度を薄めていくというものであつたが、その確立した治療法は存在しなかつた。

もつとも、酸素を投与した児については定期的な眼底検査を行つて本症の発症を早期に発見し、本症が発生していたならば、場合によつてはステロイドホルモン等の薬物療法を行つたり、あるいは前示のとおり昭和四二年に世界で初めて行われた光凝固法を行うという方法が存在した。

しかし、他方酸素投与の方法については、未熟児は特に呼吸器系器官の発達が未熟なうえに血管が脆弱であつて出血し易いため頭蓋内出血を起し易く救命自体が極めて困難であるばかりか、仮に救命できたとしても脳性麻痺や精神薄弱等の後遺障害を残す可能性が高いので、児にチアノーゼや呼吸障害の認められない場合であつてもルーチンに酸素を投与するという考え方もあり(例えば文献47東大小児科治療指針改訂四版、同58小児科治療指針、同68新生児学、同98新生児病学、同127小児科治療指針(改訂第六版)、前記のような投与基準が必ずしも絶対的なものではなかつたし、投与期間についても短期間の方がよいことは一般に承認されてはいたものの、幾日ならよいかについては確立した基準というものは存在しなかつた。

4  また、ロミコバ(Lomickova)や植村恭夫らによつて未熟児に酸素を投与する場合には定期的に眼底検査を実施しながら酸素の投与量を調整すべきであるとの見解が発表されたことがある(例えば文献74、82)が、未熟児の網膜血管はほとんどの場合酸素の投与期間中よりもむしろそれを中止した後に収縮し、血管新生あるいはその出血が生じるのが普通であることから、検眼鏡的に網膜血管の収縮もしくは閉塞していく状況を見ながら酸素の投与量を調節していくということは不可能であつて植村自身も後にかかる方法によつて本症の発生を予防することは不可能であると述べている。

もとより、本症の治療法就中光凝固法を実施するには、いかなる時期に施術をするかということが最も大切なことであるから、眼底検査はかような治療を行ううえでは欠かせない検査であつたことは明らかである。

5  ところで、昭和四四年当時は、前示のとおり永田誠が本症の治療法として光凝固法を実施してから二年、その結果が臨床眼科(文献95)に発表されてから一年しか経過していないころであつたばかりか、その施術例も同医師が昭和四二年一月から昭和四四年五月までの間に行つた六例のほかはほとんどなく(少なくとも報告例はなかつた。)、未だ追試もなされているとはいえない時期であつた。そして昭和四四年ころまでに本症の治療法として光凝固法についての論文等が掲載された文献の数も僅かであり、産婦人科関係の文献はほとんどなかつた。もつとも、光凝固法自体は、すでに昭和三〇年代の後半に我国に入つてきていたし、成人の網膜剥離等の治療に用いられてはいたが、これを未熟児に応用するにあたつては、一般に児の全身状態がよくないうえに眼底が成人と異なることやヘイジイ・メデアのため眼底をはつきり見ることができないこと等もあつて、眼底検査の実施そのものが相当困難であり、本症の進行状態がいかなる段階にあるかに至つては、相当数の症例に実際にあたつて経験を積み重ねないことには適切な診断をすることはできないものであつて、昭和四四年当時、我国でかかる診断をできる眼科医は本症の研究にあたつてきた学者や医師を除くとその数は極めて限られていた。

以上の事実が認められる。右認定事実によれば、原告雅義が出生した当時は、酸素療法については一応の目安(環境酸素濃度を四〇パーセント以下とし、酸素投与を中止する場合は徐々に薄めていく。)が一般の産婦人科医の間でも認識されていたものの、いかなる場合に酸素投与を実施するか、その場合の投与期間をどれ位にするか等については見解が一致しておらず、前示第二の原告雅義の全身状態に照らすと、清川の行つた原告雅義に対する投与方法が医師の栽量範囲を逸脱しているものとは、直ちに断じがたく、またその治療法である光凝固法については、追試段階も経ているとはいえず、一般の医療水準にまで達していなかつたものと認めるのが相当である。

そうすると、清川が原告雅義に対して行つた酸素療法及び同原告に眼底検査や光凝固法を実施せず、そのための転医措置もとらず原告信義、同絹江に説明義務を尽さなかつたとしても清川に診療上の過失があるものとはいえないといわなければならない。

けだし、ある治療法を行うことが医師の診療契約上の義務となるのは、当該治療法あるいはそれを前提とした検査方法が一般的な医療水準にまで達している場合であつて、これが未だ実験段階あるいは追試段階にあるような場合には当該治療、検査を実施すること及びそれを目的として転医させることは通常診療契約上の義務とはならないし、また患者らに対する説明義務は診療行為の内容の一部であるから、未だ一般的医療水準にまで達していない治療方法についてまで説明義務はないものと解されるからである。もつとも、〈証拠〉によると、昭和四一年ころから昭和四四年ころにかけて看護婦を対象とした教科書等や非医師である一般人を対象とした書物にも本症に関する問題が取り上げられ、新聞紙上でも本症に関する記事が報道されていたことは認められるが、かかる事実をもつて、そのころ、本症に対する予防法(とくに光凝固法)がすでに確立していたものと速断することはできないのであつて、前記判断を覆えすことはできない。

二文献23、33、35、47、58、75、80、94、97、98、99、121、127、268〈略〉及び鑑定証人黒部信一、同松山栄吉の各証言を総合すれば、次の事実が認められ〈る。〉

1  未熟児の保温について

(一) 未熟児の保育を行うにあたつて最も重要なことは、①呼吸の自立、②感染の防止、③保温、④栄養等であるが、そのうち、呼吸の自立については酸素の補給をすること、感染の防止については保育器に収容すること、保温については保育器内の温度及び湿度を高くすることなどによつてこれを行うのが一般である。未熟児は、その未熟性が強い程、低体温になりがちであるうえに、一旦低体温になるとそれを正常体温(皮膚温で摂氏36.5度、直腸温で摂氏36.5ないし37度)に上げるのは非常に困難となり、しかも低体温は児に悪影響を及ぼすので、児の収容されている保育器の温度及び湿度をそれぞれ最高摂氏三五度、八〇パーセント位にまで上げても低体温となるのを避けるよう努めなければならないことは、今日では未熟児の保育に携る医師にとつては心得ておくべき基本的事項のひとつとなつている。そして、右のような方法でも正常体温を保持できない場合には湯たんぽ等を用いることも主張されている。

(二) もとより、原告雅義が出生した当時においても、保温が未熟児保育の基本的な事項のひとつであつたことにかわりはないが、当時は未熟児保育につき消極的保育法を強調する専門医もすくなからず存し、未熟児に対しては、あまり手を加えずにできるだけ安静にしておくことが大切であり、保温についてもかような見解の反映した方法が採られている場合もあつた。

(三) 昭和四四年当時、未熟児の保育について、未熟児は体温が摂氏三四度になつても、病的なことではなく、大事なことは三四度以下に下らないようにすることである(文献80)とか、保育器内の温度は原則として摂氏三〇ないし三二度、湿度は六五パーセントとし、児の体温が摂氏三六度以下に下つても無理に上げないでせいぜい三三度にとどめる(文献33)とか、器内温度は摂氏二八ないし三二度とするものが多く、体重が一四〇〇ないし二〇〇〇グラムの児の場合なら温度は摂氏三〇度で湿度は六〇パーセントとするのが多い(文献35、47、94、98、99)とか、あまり保育器内の温度を上げることは未熟児に不必要な代謝亢進をもたらすとして温度をあまり高く上げることは必ずしも推奨されていなかつた(文献268)とか、保育器内の温度は摂氏28.9ないし32.2度、湿度は五〇ないし六〇パーセントに保つ(文献75)等の見解もあつて、児が低体温の場合には、必ず保育器内の温度を摂氏三五度位にまで保ち、それでもなお前記理想体温に上げられない場合には、右のほかに湯たんぽ、温水マット等の別途保温のための処置をとらなければならないというほどの確立した保温のための基準が存在したわけではなかつた。

2  未熟児に対する栄養について

(一) 未熟児に対する栄養の補給についても、現在では、なるべく積極的な保育方法をとるように強調され、飢餓時間は一五五五グラムの場合二四時間ないし三六時間程度、最初の糖水補液は五ccを二、三回、最初の授乳も一回五ccを一日八回とし、約一週間位でフルフィーデングにもつていくように一日ごとに最初与えた量だけ増加させて補給するというのが、だいたいの目安であるのに対し、昭和四四年当時は、飢餓時間が約四八時間、最初の糖水哺給が四ccを一、二回、最初の授乳は一回四ccを一日八回与え、約二週間でフルフィーディングにもつていくように一日ごとに最初与えた量だけ増加させていくというのが普通のやり方であつた。

(二) そのうえ、昭和四四年ころは授乳の方法についても前示のとおり消極的な保育法が行われ、例えば未熟児は出生直後は消化能力が低く、胃腸の膨満によつて呼吸、循環障害を起し易いので最初の一週間は発育に必要な熱量を与えるよりもむしろ生命維持に必要な最少熱量及び水分を与えることを念頭におき授乳量を徐々に増やす(生下時体重が一五〇〇ないし二〇〇〇グラムの場合なら一回の哺給量は二ないし四ccとして一日八回とする。)という考え方(文献33)や未熟児に対する授乳開始を急ぎすぎたり食餌の増量をあせつたりすることは嘔吐を誘発し吐物の吸引が窒息や吸引性肺炎の原因となることが多いから厳に慎むべきであるとの見解(文献58、99)も存在した。

(三) 加えて、授乳量については現在においても単に生下時体重を基準とするのではなく当該児の全身状態を総合的に判断して担当医師がこれを決めるのであるから、前記のような補給量は一つの目安にすぎず、かかる基準に従つていなかつたからといつてその授乳方法が直ちに不適切であるとはいえない。

以上の事実が認められる。

右認定事実に前示第二で認定した清川の行つた原告雅義に対する保育経過を総合すると、清川が原告雅義の保育器内温度をできるだけ上げると同時に高湿度状態にするほか湯たんぽ等を使つて低体温の回避に努める一方、原告雅義に対する食餌量をもう少し増やすなどして全身管理に積極的に取り組んでいれば、原告雅義はもう少し早く低体温状態から脱出でき、かつまた生下時体重へ復帰できたし、八〇日間もの長期間の酸素投与を受けなくとも済んだものと推認できないわけではない。しかしながら、新しい医療水準が確立していく過程においては、多くの実験や追試が行われ、その結果が肯認された後、医師に対する教育等が行われて初めて一般の医療水準になるものと解されるところ、未熟児に対する保育方法についても、従来の消極的方法から積極的方法に移る過程には相当の研究や追試等が行われるのであつて、原告雅義が出生した昭和四四年当時は、そうした保育方法の変化する過渡期にあつたものと認められる。

そして、原告の体温が最も低下した出生直後の二週間でも最低三二度(この体温が甚だしい低体温であるのは明らかであるが)であつたことからすると、同原告の収容されていた保育器内の温度も三二度をそれ程掛離れていたものと認めることはできない。そうすると、清川が原告雅義に対して行つた酸素療法を含む保育方法について、当時の医療水準からすると直ちに不適切な点があつたとはいえないものというべきである。

三以上、要するに清川の原告雅義に対して行つた診療行為には酸素療法及び保温、栄養等についての全身管理上過失があつたものとはいえないし、清川には原告雅義に対する眼底検査や光凝固法等実施のため転医措置をとつたり、そのための説明義務を尽すべき義務はなかつたものといわざるを得ない。

従つて、清川の使用者たる被告は原告らに対し、清川に過失があることを前提とする不法行為に基づく責任、債務不履行に基づく責任のいずれも負わないものというべきである。

第三結論〈省略〉

(高山晨 野田武明 友田和昭)

別表(一)、(二)〈省略〉

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